今のところ書店員の日記

書きおこしてみたい、考えたこと思ったこと

KYOTO

なぜだか昔から好きになる人やものは京都に縁やルーツがあることが多い

 

ロックバンドくるり

作家森見登美彦とその作品たちとその映像作品たち(特に四畳半と夜は短しと有頂天家族はもうとてつもなく好き)

芸人カズレーザーなどなど

映画やドラマも京都が舞台の作品はわりと好きになることが多い(新撰組!は初めて毎週欠かさず見た大河ドラマだった)

その上思えば昔好きだった人は仕事で京都に行ってしまったし、その後好きになった人は、京都の大学出身だった

みんなこんなものなのだろうか

 

まったくなんなのか、なぜなのか、その街はわたしの好きなものをつくってしまう

その人らはその街で生きていたからわたしの好きな雰囲気になってしまうのか

わたし自身は京都には学生時代の修学旅行で2回、家族旅行で1回程度しか行ったことがない

ただ、その時の思い出は確かに色鮮やかで、なぜかなんでもないささいな景色が強く記憶にきざまれている、まるで写真のように

他のあらゆる土地にも出かけているけれど、京都での記憶はなにかどこか変わっている

 

 

だからわたしはその古都がすこしうらめしい

わたしの住んだことのない街で、好きなものが形成されてると思うと(大変な思い込み)、なんだかジェラシーのような、もやもやとした気持ちが心に充満する

愛さずにはいられない素晴らしい街なのだけれどね

 

 

また、京都からきた彼らの京都エピソードがとても大好きだ

土地が土地なので、みんな圧倒的にドラマチックなエピソードや思い出を持っている

それらは鴨川をはじめとする河川や四方を囲む山々と言った地形や、多くの寺社仏閣に歴史的建造物、ファンも多い鉄道などの公共交通機関、歴史ある街を彩る文化や祭事や町並みによって形成されていて、聞いているだけで、行ったことも見たこともないその情景がまぶたの裏側に鮮やかに浮かび上がる

なんとなくでも想像できてしまうほどに、その街はインパクトが大きいところがまた罪なのだ

毎日京阪に乗って通学したとか、鴨川の土手で何にもしないで一日ぼーっと過ごしたとか、鞍馬山に登ったら野生の鹿に出会ってこわかったとか、友人が訪ねてくるたびにあちこち案内するので清水寺にはもううんざりするほど行ったとか、夏の溢れかえるほど人がいる宵山や宵々山のこととか、京都市動物園に虎のデッサンをしに行ったとか、出町ふたばの豆大福や大極殿本舗のカステラとか

なんだかこの文字の羅列だけで、物語ができそうだよね

 

だからここ数年ずっと京都に想いを馳せている

なんだかものすごく不純な馳せ方だけれど

わたしはその街で暮らすことはないと思うけれど、むしろそこで暮らしてはいけない気がしてすらいるけれど、どうにかして知りたいなと思う

なぜ京都の香りのするものを好きになってしまうのかを

なぜそれは京都でなければならないのかを